以前から顔の見える連携と言います。
では、顔が見えることで、どこまで連携ができているのだろうか。
顔が見えることを求めるのは、相手がどういう人なのかがわかることで繋がりやすいという思いから。
私たちは、繋がる相手に対して、過去の自分が経験してきたことや他者から見聞きしたことを基にしたイメージで相手の職種や立場を判断し、繋がる相手を判断してしまう。
それを、直接会って対話をし、その人の声と想いを聴いて、その人自身の真の姿を知ることを求めて、きっと「顔の見える〜」ということなのだろう。
しかし、連携はそこにはない。
真の連携は、相手の専門性と自身の専門性を理解し、相互にその専門性に依存ていくことにある。
さらに、連携によって相互が楽になっていくことでなければならない。
楽というのは、何もしなくなることではない。
自身の専門性に専念することができたり、連携先への信頼により心が楽になることだろう。
なので、連携とういうのは、顔が見えるだけではなく、相手の真の姿を知り、そして自身の専門性を知ってもらい相手の専門性を理解することができた先に自身の専門性に専念することができたり連携先への信頼から心が楽になっていくことができて連携ということになるのだと強く思うのです。
顔の見える連携
そこには、相手への信頼を作ることが求められるのだと思う。
連携する相手の専門性を理解していますか。
連携する相手をきちんとリスペクトしていますか。
下に見たり上に見たり。
立場や専門性にはそれがあります。
それがあって当然です。
なぜなら個の責任の重さや専門性に関する職業倫理の差が必然的にあるのだから。
それを認めつつリスペクトする。
批判や評論、「〜すべき」や「あれはダメ」と言った個人の感情や価値基準で評価するのではなく、その真意を理解することができなければ、連携以前の問題で止まってしまうのです。
顔の見える関係から相手をリスペクトした上での相互依存の関係から始まる連携が本来求めている連携ではないだろうか。