台風の雨がひどくなってきました。

これから風も強くなるんだろうなぁ…。

 

昨日は、講演会を聴きに山梨までちょっと遠出。

滋賀県の東近江市の永源寺地区の診療所長の花戸貴司先生のお話と、おなじみ國森さんのお話しを聴きに行ってきました。

國森さんと言えば、嵐がついてくるイメージで、私たちの講演会も季節外れの大雪に見舞われた経験が…。

今回は台風…。

良い意味で期待を外してくださり、快適な移動でした。

 

さて、お話の内容はというと…。

 

ひと言で言えば、「花戸先生は医師じゃない」に尽きる感じ。

医師ではなく、ひとりの生活者であり、私たちと同じ支援者なのです。

もしかすると、私たち福祉職よりも福祉のスタンスを持った方なのかもしれません。

ある意味、福祉職として悔しさも少し。

自身の至らなさに恥ずかしさも感じてしまいました。

 

たくさん学ぶべき事がたくさんありました。

「元気になると言うこと」「誰かが誰かを支えている」「なぜ、在宅に帰るのか。その意味」「地域とコミュニティの意味」「親子の思いやり家族の思いやりを繋げていきたい」

たくさんたくさん学ぶべき事がありました。

 

なんなのだろう…。

当たり前の事なのですが、実践をしている人はその当たり前に説得力があるのです。

よく、講演で「私はこうやってきた」という実践談をお聴きすることがある。

他の人の実践談と花戸先生の実践談とは違うのです。

その違いは一番最後のお話しでわかってきたような気がするのです。

それは、花戸先生に「先生の専門は何ですか?」の問いに…。

専門は小児科医・内科医・地域医療と分野があるけれど、「私は永源寺です」と応えるのだそうです。

専門は永源寺。

やられた!!って感じました。

皆さんは意味がわかりますか…。

 

久々に充実した講演を聴かせていただきました。

そして、学ぶ事の大切さも…。

バレーダンサーの倉永美沙さんはインタビューで「師匠は自分の力を2倍、3倍と伸ばしてくれる大切な存在なのです」と学ぶ上での師匠の存在について語られていました。

 

尊敬できる人、全てが師匠であって歳の上下ではないし職種役職でもない。

吉川英治は「我以外全て我が師」と言われたように学ぼうと思う心があればどんなことでも学びの師となる。

反面、学ぼうとしない心には、どんなに学びを伝えても届くことがない。

学ぼうとしない心には、“自分は出来ている”とか”そんなことわかっている”と自身の狭い視点でものを考えたり、“知らない”と言うことに向き合えず、自身のわかっている主張が先に出ている事が多い。

ポイントは“無知の知”なのかもしれません。

 

極々当たり前の花戸先生のお話。

この当たり前をやり続け、そして住民から学び続ける姿勢は、もうその時点で当たり前を飛び越えて、新たなものになっているのだと思うのです。

 

自分はどうだったかなぁ…。そう振り返る時間でもありました。

そう考えると國森さんのお話…。

 

「中澤さん~。自分の話はもう聴かれているじゃないですか~」と話された國森さん。

何回聴いても良い物は良いわけで、國森さんのお話は、心が慣れてしまった感情をもう一度敏感に心を磨いでもらう大切な時間でもあるのです。

 

今日、越智さんとのお電話で「署名名簿を送ってくださった方の手紙に「あの人を師匠だと思って頑張ってます」って書いてあったわよ…と」その話をお聞きして恥ずかしくて恥ずかしくて。

そのお手紙の方は、どなたかはわからなかったのですが、そうして頑張ってくれる人がいるのは、自慢では全くなく、”私自身の頑張れる支え”の言葉でした。

花戸先生の「誰かが誰かを支えている」まさにこれなんだ!と思いました。

 

明日の講義資料の微調整がまだだぁ…。

現実逃避でブログを書いてしまった。

さて、現実に戻るとしますか…。