この週末、毎年恒例のやじろべー研修会を開催。

広島から講師を招きまして生活障害について作業療法の先生からお話しを伺いました。

 

実践を中心に私たちが見るべき視点や考えるべき要素をしっかり伺うことが出来ました。

この研修のお話しはこの次にするとして…。

 

今日は、たびたび祖父の話をしてきましたが、以前お話ししていましたおそば屋さんのお話。

 

研修講師と共にそのおそば屋さんへ…。

???

月曜定休日なのに今日(土曜日)は休み?

フッと見上げると看板がない!

移転した…?

 

実はそうではなかったのです。

 

店主が歳のため2月に閉店したのだそうです。

 

講師にお蕎麦を振る舞えなかったこともあるのですが、何よりも、あのお婆さんに会えなくなってしまったこと。

 

そして、祖父の面影を感じることが出来る唯一の場所が消えていってしまったことにショックの寂しさを感じてしまいました。

 

このところなじみのお店が閉店していくことが続いている。

 

小さい頃からあったパン屋さん。

店主が高齢であることと病気のためとのこと。

 

老舗の天ぷらやは跡継ぎがいないため…。

 

なじみの店が消えていくことと、思い出がその場所に行くことでリアルに蘇らせてくれる外部記憶が、自身の記憶だけの内部記憶のみになり、脳の特有である変化する記憶となってしまったり、忘れたものを蘇らせるための手段を失った記憶のため年々消え去るのみとなっていく。

 

思い出は、外部記憶によってリアルに保つ事ができる。

それは、たとえ認知症になったとしても…。

 

思い出の場所は出来る限り残っていて欲しいと思うのですが…。

そう考えるとヨーロッパの古い町並みは、数百年の面持ちを保ちながら歴史を刻み、古い家々も価値を生みだす。

 

日本の旧所名所は文化財として残るのですが、人が生きる街並みや家々は便利さという名で開発が進み全く違うものに生まれ変わっていく…。

 

その結果が空き家となっていくのかもしれない…。

 

空き家に価値を持たせるのは私たちの思い出を紡いでいくことなのかもしれない。

 

思い出の蕎麦屋つる忠。

祖父と店主と共に忘れたくない思い出の場所。