インターネットの検索サイトで、一度調べた内容や興味のある情報など、検索する人の傾向を反映した情報が、ネットを開くたびに、ニュースや広告、自分の地域に関連する情報が優先的に提示されてくることはありませんか。

私がさまざまな事柄を検索している履歴から、私が過去調べたり、興味を持って見ているサイト、自分が今いる地域(GPSや基地局から検索)などを情報源に、ネット検索のアルゴリズムが私たちの検索閲覧の傾向に基づき、意図的にニュースなどでピックアップされて、個々の見たい、知りたい情報を提供をしてくれる便利な情報が提供されています。

しかし、この私たちに便利な情報は、自分の興味の範囲に限定され、望まない情報は目の触れることのないように隔離され、実質的に自分の周りには必要以外の情報は目に触れられることがなくなり、次第に特定のフィルターで選別された情報に囲まれ、文化的、思想的な透明な泡の膜の中に閉じこもるように、自身の好みの殻に閉じこもることになっていく。
これをフィールターバブルというようです。

欲しい情報が手軽に一気に手元に来るのはとても便利。
便利なことは、生活をしていく上で効率も良くとても都合がいい。
しかし、問題は、情報の偏りなのです。
欲しい情報がピックアップされるということは、自分の好みの情報のみが集まり、偏りが生じてしまう。
例えて言えば、テーブルの上に常に好きな食べ物しか乗らなくなるようなもの。
好きなものばかりだと嬉しいのですが、そこには偏りが生じてしまい、体を壊すきっかけにもなる。
偏った情報は、知らず識らずのうちに、偏ったものの見方を形成していくことにもなりかねない。
偏見や噂、真実でない事実という情報。
行き着くところ、それらは、人間関係を分断することになってしまったり、人権侵害や差別意識を助長させることにもなりかねない。

大切なことは、情報の波に飲み込まれないこと。
何が真実で何が虚偽なのかを見定めることなのでしょう。
とはいえ、やたらに情報を集めないということではない。
それでは、自己のフィルターバブルの中にいることになってしまう。
大切なことは、手元にある情報とは反対の考え方や見方の情報に、意識的に触れていくこと。
自分と異なる考え方や視点を持つ人の話を積極的に触れていくこと。
自分の欲しい情報でない、考えが合わないということは、自身の視野や考え方を広げていくきっかけなんだと思えること。

自身の意思と考え方があって、対話を重ねていく中に他者との意見が合わないと言えることが出てくる。
しかし、合わないからといって自分は自分と我を貫くこともある意味、フィールターの中にいる様なもの。
自分をしっかり持ち、他者の意見や考えを聞いていくこと。
それこそが、共生社会への道なのではないだろうか。

対人関係は難しく、めんどくさい。
だからこそ、その先に強く大きな意味を持った光が見えてくるのだろう。

 

2018年03月05日 13:05

15周年記念事業が無事終えました。

 

たくさんのお花に祝辞。
この15年間の歩みを振り返り、多くの方々から支えられていたことをあらためて思う日々でした。

しばらくご無沙汰してしまった仲間。
地域の公民館の先生。
地域のおじちゃん、おばちゃん。
多くの方々がご来場されました。

日頃から思うこと。
それは、誰か権威的な人間が、もしくは力が強い人が、物事の先を指し示し、そこに誘導するのではなく、またはルールを作るのではなく、一般の庶民が日頃の生活の中で生きることの意味を見出し、支えて支えられる関係を作っていくことが大切なんだと思うのです。

先日、モーガンフリーマン時空を超えて「悪は根絶できるのか」の中で、強弱はあるが人は共感する力があり、それは赤ちゃんにもあり、みんな生まれながらに他人を助ける人をいい人と判断し、妨害する人は悪い人と判断できるといいます。
しかしなぜ、悪い人が出て来るのか?という問いに、研究者の彼らによれば、育ち方に影響されるというのです。
良識を歪めるような教育や他者を否定するような環境で育てられると、もともとある力が、悪い方向に走ってしまうというのです。言うなれば、生まれつきの倫理観というのは、脆いものなのだというのです。
(この話は、後日どこかでもお話ししますね)

ならば、その邪悪に育ってしまったら矯正不能なのか?研究者たちは可能だという。

私が常々教育の大切さ。そして、関わる人々によって自分の心も大きく影響されてるという考えは、やはり研究者の目から見ても事実のようです。
だからこそ、ここに社会教育の意味があると考えるのです。

私たちが行う周年行事は、こうした社会教育の視点と社会福祉の視点を併せ持ちながら企画することを考えて企画。
今回行った写真展と講演会も、そうした思いから、地域の人々が土の付いた長靴やサンダルで、本物の芸術や真に迫る作品に触れられる環境が大切なんだということ。
また、そうした作品などに出会えるきっかけを作るということが大切なんだとの思いから企画していった結果なのです。

最終日の出来事。
お歳は、70代後半~80代くらいの私で言えば、母のようなお歳のお2人が、真剣にじっくりと写真をご覧になられ、時に想いを共に語り、時に涙する姿がありました。
そして、感想やメッセージを書く場所に来ると、1人は感想を、もう1人は残りの数点の写真を見続ける。
すると「感想はあと!全部見てからじゃないと書ききれないわね~」とご友人を誘われ、最後までご覧いただき感想を書いて下さっておりました。
そのあと「いい写真展でした。珍しい作品ですね。私たちのこれからを考えさせられるものでした。こうした写真はもっと若い人に見てもらうことが大切だね」とおっしゃり、「この写真展は、もう一度もう少し長い期間やられたほうが良い」とも。
お返事に「では機会がありましたら是非考えて見たいと思います」と答えると「機会があったらではなくて、もう一度是非やってください。お願いしますよ」とにこやかに励ましのエールをいただきました。

また、お孫さんと来場された祖父さんが、写真を見ながら自身の最期の想いを語り合う姿。
自身が介護してきた両親や姑さんのことを思い出し、私たちスタッフに想いを語ってくださる方々。
一度見られて、2日続けて来られた方。また、良かったから行っておいでと、ご家族に伝えられて来てくださった方々。

さらにもっともっと…紹介しきれないほどのたくさんのコメントや励ましをいただきました。
いろいろな想いを織り成す3日間でした。

これからも、社会教育と社会福祉の融合の考えのもと、今日から15年の先に歩みだす日。