22日t24日の間にもう一つつぶやいておきたかったことがあります。

今日は、そこをつぶやいておきたい・・・。

 

やじろべーは、あくまでもクライエント主義というお話。

そして、その主義がクライエントのためという視点をもとに支援のための知識を身につけようとし、それが気づかないうちに微妙にズレてしまい気づかないうちに壊れてしまう自分の姿のお話をしたいと思います。

 

“制度や世間のルールは我々が変える”という全くの根拠ない気概で、文字通り猛進していった。

行政とも喧嘩をした。

ふざけた専門職にも…。

気づくと敵と味方が明確に分かれていった。

多くの人は、理想主義者だと言っていた。

「理想なくて、どうして目標が立つのか!」と突っ張った。

「もっとも苦しむ人のために何ができるかを常に問え」を支えに…。

 

かつて魯迅は「悪を見逃すのを寛容と思い誤ってはならぬ」と言った。

そんな言葉を支えに正義感バリバリで主張した。

 

敵対する者や虚栄心の強い者から根も葉もない噂をたてられ、陥れられたこともあった。

事実も知らずに批判する者もいた。

それにまんまと乗ってしまう馬鹿な自分でもあった。

 

心が傷つき壊れそうになりながらそれでも只々突っ張って進んできた。

 

しかし、今思えば心の一部には、陳腐な正義感と自分の認める世界以外は悪という構図を勝手に自分の中で作り上げていっていたのかもしれない。

 

それは、中途半端な知識をつければ付けるほど、否定が強くなっていった。

知識は、実践するためにあるもので、他者を論破する道具でもなければ、自身を飾るためのアクセサリーでもない。

知識に価値を求めてしまうと実践は机上で語られるようになり、口だけで仕事をするようになる。

 

クライエントに向き合う現場から離れると大体はそうなってしまう。

 

それを上手に表現されているのは、「戦線から遠退くと楽観主義が現実に取って代わる。そして最高意志決定の場では、現実なるものはしばしば存在しない。戦争に負けている時は特にそうだ」という押井守監督の機動警察パトレーバー2 THE Movieでの後藤隊長のセリフ。

 

「現場から離れると、物事は都合の良い理論的推論が現実の困ったことに取って代わる」

「そして、何かを決める立場であったり、相談を受けた上司は、困っている事を理解できずに、楽観的に捉え現実の問題や苦しみが見えてこない」

「自分の理解を超えているときは特にそうだ」

と置きかえることができる。

 

知識はとても重要なもの。

知識がないとより良いケアは提供が難しい。

最善の支援もできない。

 

しかし、知識は魔性が潜んでいる。

新しい知識は先ほども述べたように、自身を飾るものになっていくところもある。

それ自体が問題なのではない。

身につけた知識をどう知恵に変わっていくのか・・・。

 

自分自身も知識をたくさん身につけていった経過がある。

資格を取得することに注目したこともある。

前回に述べたように、リハのOTを目指したいと思ったこともある。

 

いろいろな職種や資格に興味を持ち、その知識や資格を目指し学んだ。

 

さて、その結果はどうなったのか・・・。

結果は、自身が身につけた知識のレベルに合わせて周りが“できていない”“わかっていない”という苛立ちからくる「目的の相違と虚栄心」そして万能を求めたさらなる知識欲求のモンスターだった。

 

この欲求はきりがない。

次から次へと求める事になる。

 

時々、介護の専門学校で講義をしていると、実習から帰ってくると介護福祉士から看護師になりたいと転学する人がいるが、その学生の理由にそしてその姿に似ているのかもしれない。

 

自分に合った仕事がわからなくなってしまう瞬間でもある。

 

いったん、路線に迷うと自分自身では戻れなくなる。

どんなにがんばっても、戻れなくなる。

 

この話は・・・わかる人がどれだけいるのかな・・・。

 

実体験した人しかわからないだろうな・・・。

 

ただ、ここで言い留めておきたいことは、ケアはすべてを包含すると言うこと。

cureもリハもすべては、Careの包含するのです。

 

評価は低いのですが、Care(ケア)がすべての中心に有り、どんな勉強をしても、どんな資格を取ろうと、最後に行き着くところはケアなのです。

生活を共にする事でしか見えないケアなのです。

 

その証拠に、アーノルド・トインビーが貧困地域に入り一緒に生活をしながら教育をし支援していったこと。

トインビーホールができたこともその意味に繋がっていくのだろう。

 

さて、話が逸れました。

ただ、自分が壊れていくことに繋がる話でもあるのですが、加藤諦三氏は「相手を理解することとは、自分と相手の違いを理解すること」と言われているが、相手を理解するのではなく、他者を否定することになってしまっている自分のキャパの狭さに嫌悪した。

そんな陳腐な心は人は簡単に見抜くもの。

独創的は、いつか独断的となっていった。

心は少しずつ壊れていっていたのはここからなのかもしれない。

 

そして、味方だと思ってた人が裏切っていく。

それが決定的なパワーレスとなっていった。

 

壊れていく自分を支え立ち直らせてくれる人々がいたことは、以前つぶやきの中で時より触れていましたので、傍に置くとして…。

 

支える人それ自体に気づくかどうかも大切なこと…。

 

つづく・・・。