だいぶ間が空いてしまいました。

この間に、コロナ感染者の減少で、今まで先送りになっていた事業や今のうちにと新たな相談事業などが入り、三日坊主通り、ついつい書くことを後回しにしてしまいました。

さて、おまけの話をしてみましょう。

この介護保険は、契約制度という形式。
サービスの提供という側面から、サービスの提供がなくなると契約は終了となるのは、皆さんがご存じのとおりです。
例えば、あまり考えたくないのですが、残念ながら霊山に旅立たれたことで、当然のことながら、それによってデイサービスに通わなくなる。また訪問などのサービス提供が終わる。ということになります。

確かに、介護保険は契約制度ですから、サービス利用がなければ、契約解除となるのは何ら変なことではありません。
しかし、ほんとうに必要なことは、この霊山に旅立たれた(亡くなられた)後の時間。
家族のケアはここからが総仕上げとなっていく。

グリーフケアとも言いますが、日本での葬儀は本人を弔うこと、関わりのある周りの方々へのお礼を述べる時間になっているのが実際のところ。
そこには、介護者家族と本人とお別れの語りはあまりつくりにくい状況でもある。

それだけ、規程の葬儀は忙しく慌ただしいので、しょうがないことなのかと思う。
ただ、このコロナ禍によって、葬儀の形式が変わってもきましたね。
家族葬という、こじんまりと故人を偲び弔うようになってきたようです。
そうしたニーズが増えたせいか、潰れたコンビニの建物を利用した葬祭センターがだいぶ増えてきたことからも、小さくこじんまりとした葬儀が増えてきたことがうかがえます。

話は戻ります。
介護者家族と本人とお別れの語りの時間は、本来、昔からある通夜の時間が、そうした時間なのかもしれない。
寝ずの番ということで、亡くなられた本人と、夜通し語ったり親戚や家族と話したり。
しかし、喪失や悲嘆の状態にあるこの時間では、語りとしての時間にはまだまだ早く、心の整理と言うよりも、悲しみと向き合うのが精一杯なときでもあります。
喪失や悲嘆の感情やその人との人生を振り返り、心を整理し次へと歩み出すには、亡くなったその人の思い出を語り合い、良かった思い出や心残りだったことを言葉にして心を整える。

それには、故人知る人との語りの場が大切になってくる。また、亡くなられた方から死という意味や生きることの意味などを、最期のメッセージというのか、何か大切なことを教わる時間がそこにはある。
そして、そこから明日に向かって歩む時間がどうしても必要なのです。

こうした時間は、専門職としても大切で、自身が行ってきたケアの振り返りや、何年もやってきたケアに意味を持たせ自信へと繋がっていくエピソードとして心に残っていく時でもあります。
以前からターミナルを行っている施設でのスタッフの心のケアの必要性など言われていました。
スタッフも家族も同じようにケアが必要なこと。
ただ、どうケアをしていくかです。

死を忌み嫌うものではなく、大切な出会いの先にある死のとらえ方にそのカギがあるのだと思うところです。
となると、次は、この死のとらえ方について、私の所見を書く必要があるのかなと思うのですが、死については、哲学と個々の価値に繋がることですから、標準化した答えは見つけられない。
なので、一所見程度の話になるのかな。

再び話は戻って、家族支援について全体を通し総じてこのお話は終わりにします。
家族支援を総じて考えると、介護者家族の何を支援するかがあやふやでは支援のしょうがない。
たとえば、大変な状態を支えると決めたとしても、大変になっている原因を取り除くことを目的としてしまうと、要介護者を取り除くことに繋がりかねない。
もちろん、レスパイトという考えで、一時的に離れることはとても重要なときはあります。
ただ、レスパイトは介護者家族だけでなく、要介護者に対してもしっかりとフォローが必要であるし、レスパイト中からその後のケアも欠かせません。
それだけ、レスパイトは様々な影響を与える支援方法でもあります。

様々な支援方法やサービスを利用していくと同時に、疲弊している介護者家族のレジリエンスを信じ、エンパワーメントを支え高める支えを何よりも力を注ぐことが家族支援には重要となっていくと考えています。

では、どうやるか。
対話の力がその大きな支えとなります。
例えば、こうして三日坊主では私の想いを一方的に伝えています。

だから、中味は洞察の深みや様々な角度からの思索が不十分です。
対話は、自身の想いに他の意見や見方が加わり、同調から時に自身の自分の考えを深くしたり、ときに、自分とは違った意見の相違から、新たな考えに広がりを身につけることになる。
介護者家族も対話により自身の想いに共感されることで立ち上がる力となり、別の考えから閉塞感から脱出することができる。
対話には、そうした力がある。
支援者である私たちは対話力を身につける必要があるのだと思うのです。
会話ではなく対話力を…。

対話には、相手に対する敬意がまず大前提となります。
でなければ、意見は平行線で、お互いに何の益ももたらされない。
対話は、相手も自分も納得と成長がもたらされるもの。
一方が教えるや論破するものではないのです。
家族支援とは言いますが、問題や課題となることを解決することはもちろんのこと、介護をすること、また介護をしていくことでの労苦を意味あるものへと繋げていくことが求められるのが、家族支援なのだと思うのです。

そのための対話であり、終末期以降の介護者家族へのケアでは、きちんとお別れの時間を作って語り合う時を刻んでおくことが大切となるのだと思います。

それは、やがて自身の人間としての成長へとつながっていくものなのだと思うのです。