写真は、先日川上村へ向かう途中での八ヶ岳?です。

秋らしい風がそよいでいました。

そして、昨日の台風。

このコスモスは散ってしまったのかなぁ…。

コスモスに紅葉、そして台風。秋の季節の象徴ですね。

 

さて、前回のHow toの続き

さて、私たちは対人援助を生業にする立場。

前回の様なこうした悩ましい時間があって当たり前(あまり当たり前という言葉は使いたくないのですが)ですよね。

なぜなら、私たちは人間を支援するのですから。

人間という複雑な感情や想いを支援するということは、機械を動かすようにはいかない。

そんな考えからHow toだけの発想にちょっと抵抗があるのは事実かなと思います。

 

しかしその反面、想いだけを前面に出しても解決には遠い。

その想いを、対人援助関係の原則、ルールに乗せたら想いの空回りは軽減させることはできるだろうし、守るべきルールがおのずとついてくるものだと感じています。

 

悩む人を目の前にした時、人のために悩まないことなんて普段の生活ではありえない。

なのに、私たちは仕事として人を支援する時、なぜかHow toを求めてしまう。

 

悩むことを避けてしまっているからなのだろうか?

それとも早くその人を助けたいから?

 

悩むことや苦しむことは避けて通るようにしてあげなければならないのか?

それよりも、悩み苦しむ人を目の前にしたときに共に苦しみ悩みそして再び歩み始められるように勇気を送り励ましを送り続ける存在であるべきなのではないか。

私たちのできることは限られ、人の人生をまるっとすべてを支えることなど到底出来ないと支援するたびに実感するばかりです。

それでも、その苦しみが和らぐのであれば、そっと寄り添っていよう!前に向かって歩めるのであれば道を作ってあげよう。

それでも、それでもと思って頑張る。

クライアントの可能性を信じていきたい。

たとえ今はどうにもならなくらいな状況であっても必ず蘇生するんだと信じ続けていたい。

そんな中で、悩み苦しむ日々なのです。

 

たとえば共感という言葉。

簡単な言葉ですが、人をケアする上で相手を理解することや共感する事は大切です。しかし、それが難しい。

でもその難しい援助を乗り越えていく先に上手くいった経験は、認知症の人と共に喜ぶことができると私はは信じていたいのです。

相手のために苦しみ悩んだ先にあるもの、それは共に喜べる私になれることなのだと思います。

 

私の心肝に染まるものはたぶん福祉人の色なのかもしれませんね。

弱者や(村上春樹の卵と壁の演説のように)マイノリティ側に立つ者として、その人の苦しみや悲しみなどの悩みの闇の中にいるクライアントと共に悩み、そして元気になるというか蘇生していくことを私たちの喜びとしていく。

その人のために悩むことを惜しまず、また悩む力があるのか。

人のために悩める私でありたいと思うのです。

だって、心閉ざし苦しみにあえぐ人が、元気になっていくその姿って私たちも元気になっていきますものね。

私の大好きなコミュニケーションの先生は「人のために支える事は、自分を助けることになる」と言われました。

 

もし、それを無くしてしまったら、福祉ではなくなってしまうような。

私でなくなってしまうような…。

 

最後に…。

ケアのHow toはあるのか?ないのか?

How toをケアの方法の知識の一つ知識として考えるなら有りかもしれません。

しかし、対人援助として捉えるのであれば無いのだと思う。

長々書いてきた想いはこの一言で集約するのかなぁ…。