カナダでLGBTへの差別解消を図る団体の副代表であるF・エンゲナ氏の言葉を目にした。
彼は「誰かを差別することは、全ての人を差別することになる。そして、差別する人が1人でもいる限り平和は訪れない。その差別を対話でなくすのが私の使命です」と。
きっと多くの人は、このエンゲナ氏の言葉に賛同し、LGBTの方々への差別はいけないことだとされるだろう。
また、差別という視点で言えば、人種差別や男女差別もあり、これらにあっても、そうした差別は問題であると言われるだろう。
差別はそれだけでなく、宗教差別や貧困による差別など、挙げ出せばきりのないほど挙がってくる。
たとえば、宗教や人種、貧困これら問題に対して、どんな感情を示すのだろう。
宗教という分野になると「テロをするから」という感情。
貧困の分野になると「貧困は自己責任」と言って差別の内容に対して一部容認するような発言が出てくることはないだろうか。
全ての人が差別されることがないように!と思っていても、個々の事案になると、無条件にということではなさそう。
また、生活保護受給者に対して「週刊誌など買って良いのか」「家賃が自分よりも高いんじゃないか」と逆差別なのではと批評の声も聞こえてくる。
言葉汚い言い方をすれば「障がい者の“くせに”」「生活保護世帯の“くせに”」と“くせに“と人を下に見る言葉が行き交うこともある。
そもそもくせにってなんなのだろう。
つかこうへいの熱海殺人事件では、妻を殺してしまった人情味のある刑事が妻に言われた「くせにってなんだ」と息子に問いかける場面があるが、まさにくせにってなんなのだろう…。
話は戻るが、こうした言葉に対して「それは問題だ!」そういうことを言う人に対して「ひどい!」という感情を福祉専門職の人々なら強く湧いてくるのだろう。
さて、LGBTや人種差別などのあからさまな問題、社会的な課題となる問題に対しては、問題意識を持ち危機的視点を持つことができる。
しかし、気になるのは、そうした社会的課題にまでには至らない差別は身近にあることに気づいているのだろうか。
いや、気づいているのだろうけれど、意識をしてそれを解消するための行動はどうなのだろうか。
後編につづく…。