話を聴くことは相手を理解していくことであるし、理解していこうとする姿でもある。

 

さて、私たちは、心にズバッと合致したこうした言葉を学ぶと「なるほど!それそれ!」となる。

そして、その言葉は気持ちの上では、わかったような気持ちになってそれを実践する…。

しかし、それをいざ実践をしてみると、言葉で言うほどそう簡単ではないことに気づく…。

そうなのです。

言葉とは不思議なもので、上手に言葉で表現する時は、またされた時は、いくらでも実践できるような気持ちになるのですが、実際に言葉で語るようなことを実践しようとすると、語るほどにはまずできないのです。

 

そうしたことを度々体験し、行き詰まっていくと「わかっている!わかっているけど、それができたら苦労しないよ…」という言葉に通じるのでしょう。

 

認知症の人の声を聴こうというのはみんなわかっているわけで、言葉で言えば簡単なこと。

でもそれを実践しようとすると、ワーカーの個人差が出てくる。

「なぜあの人には話してくれるのに、私には話してくれないのか」またはその反対なことが起こってくる感じ。

 

聞くと言ってもそんなに簡単なものではない。

よく、コミュニケーションのアイテムに、書く、読む、話す、聞くと表現されますが、この並びは難しい順番とも言われます。

書くが1番難しく、聞くに向かって簡単になっていくとのこと。

ただ、“聞く”が“聴く”に変わった瞬間に聴くはとても難しくなる。

聴くは、耳?目を皿のようにし心を使って=「聴く」になるわけですから、それはとっても難しい。

さらに、聴いた言葉を心に残しながら返していく。

 

簡単なようでそれが思ったようにうまくできない。

 

聴くという行為は技術もそして心の強さも必要となってくる。

傾聴のスキルも分析する力も必要となってくる…。

 

その1で語ったように「自分の講義は相手に伝わっただろうか…。」そう思うのは、理論的な文言や方法論だけでなく、日頃から思うことは、実践が伴っていることが教育だということ。

 

口が上手くてその場ではわかったように気持ちよくさせる講義は人気があるのかもしれない。

でも、本当に必要な学びの場は、自身を振り返り、クライエントに思いを馳せながら自他共に成長していこうとする姿を身につけていくことなのだと思うのです。

そうでないと、学んだことに満足を感じてしまい実践へと繋げていけなくなってしまう。

 

しかし、学生や研修生でも、エンパワメントの話やその人らしさの問いをすると、自身の想いを語るか理論的な教科書的な言葉が羅列することが多い。

 

問題は、その言葉の意味を理解し使っているのかだけではなく、その言葉からどう実践していくのかということが私たち臨床家の本道であるはず。

 

しかし、私たちは、学んでそれを言葉にすることで、それを実践したかのような錯覚をしてしまう。

もちろん、例外なく自分自身もである。

 

なんのために学ぶのか?

そこを忘れてしまうと言葉だけの理解と口(言葉)で仕事をしてしまう。

また、口で教えて実践する難しさを教えずに過ぎてしまう。

 

支援者を育てるというのは、地道に実践する人を育てることなのだろう。

 

本物の福祉の実践者は太陽ではなく月。

影の存在で、太陽に照らされたような揚々とする人生を送る時には気づかれず、必要とされず。

闇に囲まれた時にそっと優しくその人を照らす存在。

 

そこにこそ支援者としての価値は存在するのかもしれない。