大空へ、海へ、故郷へ私はもうすぐ、帰ってゆく

大空へ、海へ、故郷へ私はもうすぐ、帰ってゆく

いつまでも、空を見上げて、老人はあの頃を思い出すのだろう。

私の好きだった、あの人も今では、もう死んでしまったかしら。

 

大空へ、海へ、故郷へ私はもうすぐ、帰ってゆく

私の短い人生は、私の生き方で、生きたから、

もう一度若い頃に戻りたいとは思うこともない。

ただ、あの人に、私の愛が伝えられなかった。

それが心残りです。

私の好きだった、あの人も今では、もう死んでしまったかしら。

 

1975年に発売されたオフコースのアルバムワインの匂いの中の1曲です。

 

アルバムのタイトルにもなったワインの匂いは、数年前に松本英子がリメイクされて、歌われ、ちょっと話題にもなった曲です。

原曲よりも松本英子の方が私は好きです。

 

さて、この老人のつぶやきの詩はいかがですか。

 

こうした感情に私たちは、自分のことのように振り返って考えてしまいますね。

この歌詞に出てくるあの人を探してあげたいなんて思ってしまったり・・・。

 

想いを受け止めて何かをしてあげたい思いは誰にでもあることだと思います。

なのに、それをスルーしてしまう支援も私たちの身の回りにはある。

忙しいから…。

自分勝手の訴えだから…。

 

確かにそうかもしれない。

でも、私たちがその声を聴かなければ、誰が聴くのだろう。

私たちが聴かなくなってしまったら、私たちの存在はどうなってしまうのだろう。

 

時々「何も語らないから…。」そんな声も聴く。

何も語らないのか?

語っているのにそれをキャッチしていないだけなのか?

 

「認知症の人の声を聴こう」この10年そんなキャッチフレーズが続いた。

今もそうしたキャッチは続く…。

 

「聴こう」ではないのでは?と思うことがある。

いつも、この「聴こう」の言葉に違和感があった。

確かに、“聴く”なんだけど…。

そもそも、聴いていないわけではない。

どう表現したらいいのかわからず、言葉を変えて、“聞いている”のか“聴いている”のかなどと表現してみたが、それもしっくりしない感覚を持ちながらそれでも表現をしてみたりした。

 

ナラティブな視点に置き換えた時、やっとしっくりする言葉に出会えた。

語りを聴くのではなく、語り“合う”なのではないかと。

そう、本当は「語り合おう!」なのではないだろうか。

お互いに言葉を交わし、想いをキャッチしてその想いに対して私の想いを返していく。

そうした語り“合い”のやりとりをしようとするならば、「何も語らない」とはならなず、語らないように見えるその姿にも、何かを伝えようとする仕草をキャッチしようとする私たちの視点がうまれるのではないかと思うのです。

 

あくまでも一方通行でない語り“合う”なのではないか…。

 

たとえば、オフコースの老人のつぶやきにある「あの人に、私の愛が伝えられなかった。それが心残りです。」に対して、「じゃあ代わって伝えてあげる!」でもなければ「探偵ナイトスクープにお願いしよう!」にはならないわけで・・・。

そこに、支援者の私とつぶやく老人と語り合いがあれば。また相手の想いを受容しようとする姿があれば、「どうしたい?」という言葉が生まれてくるであろうし、“してあげたい私”と、それをどう望むのかの老人の想いから、この次の人生が現れてくるのだろうと思うのです。