週末は、熊本の友人と連絡。
職場の施設は無事でしたが自宅が崩壊してしまったとのこと。

何か足りないものや欲しいものは?と聞くと「家が欲しい」と。
確かにそうだ。
それ以外は?と聞くと。
今のところは大丈夫とのことだった。

もう1人の友人は家は大丈夫だけど食料がないとの話。
地域によっては水もない状態だと聞く。
テレビでは給水車が出ているのに…行き渡らない言うことか…そう伝えると。
どうもそうではなく、水自体がないようなのです。

ではさっそく物資を送ろうとしても、ブラックニャン子も飛脚のおじさんも熊本への配送は今のところ中止中とのこと。
せめて支援をと思い、足りないものを送ろうとしても届けられないもどかしさ。
やはり人的支援が一番なのだろう。
しかし、余震が続くためにボランティアの受け入れができない状況。

友人はバイク隊を組んで持てるだけ持って現地に入るという。
遠く離れた私たちは、ただ無事を祈るだけしかできないのか。
いや、できることが少ない中でも無事を祈ることができるならそれだけでもしよう。
そして、あらゆる手段があるならそれを使おう。
ネットワークが今、意味をなすのだと感じる。

家を失った先の友人は、地震が被災しながらも近隣の施設に励ましをおくる。
そこでで利用者の薬がないとの声に、行政などに支援を求めるが、行政も大混乱の中手が回りきれない。
そこで、自身が持つ医師との連携で、その施設に薬を届けることができたと話された。
ここにも、いざとなった時の今までのネットワークが生きていくことがわかる。

そこには、利害や只のつながりではなく、心と心の結び合うお互いを思いやる関係の積み重ねがあって、こうした緊急事態時の支え合いができてくるのであろう。
自身が被災し、住むところを失っても尚も他者への想いを馳せる姿は、そういうことなのだろう。

友人との電話の切り際、「落ち着いたら長野の別荘でゆっくりしたいから、別荘を用意しておいてね」の言葉に、早く落ち着いて長野に来られるように、これからも支援の心と忘れずに目を向けていきたいと思った週末でした。