吠える犬と撫でられる犬その違いは、“吠えるからいけない”だけではなく、吠えられて都合が悪いという理由もある。

ただ、犬は感情や反応からくる反射で吠えるので、人間とは違う。

人間に当てはめると、そこには、吠える(人間であれば怒るや文句とか…)方にはそれなりの理由もある訳で、それを頭ごなしに否定することはできないもの。

それを否定してしてしまったら、対話どころか対人関係自体が成り立たなくなる。

そうなるとコミュニケーションの必要性は高いですね。

コミュニケーションは自身の思いを伝えるだけでは、コミュニケーションではなく「伝達」となってしまう。

伝達であると「なんでわからない!」であったり「この話を理解しろ」となってしまう。どんな変化球も受け取れ!となってしまうのである意味自分勝手。

本来のコミュニケーションはよくキャチボールと言いますが、相手が取りやすく投げることですよね。

カッコよく投げるのが目的ではなく、続けることが目的。

 

だから、コミュニケーションは自分のものではなく、相手のものであって、この言葉は相手はどう受け止めるのだろうかと考えながらキャッチボールするものなんだと…。

 

きっと真実を見定める方法は、このコミュニケーションが重要なカギになってくると思うのです。

だって、相手がどう受け止めるのかを考えるということは、相手の思いを感じとろうと、受け止めようとすることから、相手について色々わかってくるわけです。

そして、私たちの心は、

ボリス シリュルニクスが書いた本「憎むのでもなく、許すのでもなく。ユダヤ人一斉検挙の夜 」ではないですが、憎まずしかし、許すのではなくという感情をどうコントロールしていくのかにつながっていくのかもしれません。

 

行き着くところ私たちの心をどう適正に保つのかということですが…。

良き理解者、良き先輩、良き師にであるのかで、決まってくるような気がします。

たとえば、蒼蠅驥尾に付して千里を致す(蒼蠅(あおばえ)は遠くまで飛べないが、名馬の尾にとまれば千里も行くことができるという意味)の言葉通り、良き人に出会い、学ぶことで悪い考えや無作法な関係から遠ざかることができるのです。いい人に出会うこと。そしてその連帯を広げることが大切なんだと思うのです。

 

あとは、自分のこと。

自身人間性を鍛えるしかないのだろう…。

私の恩師は、「おだてられ、甘やかされて育てば、人間は強くなれないし、力もついてきません。ちょっと辛いことや困難に出くわせば、人のせいにして恨み、愚痴や文句を言って逃げ出すような弱い人間には、なってほしくないんです。強く大きな心のリーダーに育ってほしいのです。

心が弱ければ困難や苦しみを恐れて、恩義を踏みにじり、裏切りさえも犯しかねない。

正義の人とは、心強き人なのです」と。

 

私たちはとても弱い存在。

だから良き連帯をどう作って行くのか。

正当論をどう言葉にし続けるのか。

ここにかかってくるのかなぁと思うのです。

 

今回も長くなってしまった。

しかも、文章が飛び飛びの内容。

次回からはもうちょっと身近な内容にしますね。