夏の終わりの花火大会

地元でも、一大イベントとして花火大会があります。

昨日も、諏訪湖で花火大会。

最初の30分で大風雨で中止になってしまいました。

ただ、中止になってしまったのはしょうがないことなのですが、電車が止まり、高速道路が止まり、帰宅困難者が続出したとはとても悲しい出来事でした。

悲しい出来事問いえば、京都の福知山での事故。

また悲しい事故が起きてしまいました。

 

最近テレビを見てて、ちょっと気になったことがありました。

昨日の事故でのインタヴューでも事故の模様を笑顔で応えるひとや特攻隊の特集番組で、資料館の現地でキャスターが報告している後ろでピースサインして笑っている外野のひと。

 

悲惨な出来事がすぐ隣で目の前にあっても、歴史に対して真摯に向き合って考えるべきその場であっても、それがフィクションであったような感覚であったり、何かのアトラクションを見ていたような表情であったりする姿を見ると、「人の心はどうなってしまったんだろう・・・」と、ビックリする感覚を通り越して、心がざらつき切なくなりました。

自分の身に降りかからなければ、相手の苦しみや悲しみについてどこか他人事で、つい無頓着な行動をとってしまう・・・。

 

人は共感していく中に、いたわりやもてなす気遣いができるはずなのに・・・。

 

事故だけではなく、私自身の普段の生活の中にでさえも、それは静かにやってくる。

 

ワンガリー・マータイさんは「人類における、全ての偉大なる教師は、自分のためでなく、他の人のために奉仕するという人生を生きてきました」と話されています。

さらに「他人に尽くしてこそ、真に満足できる人生を実感する事ができるのだと思います」とも。

 

人に貢献する行為について、私の恩師は「貢献的人生といっても、どこか遠くにあるものではない」「まず、目の前の一人を大切にし、身近な人々と聡明に友情を育んでいくことなのです」と教えて下さった。

 

まず目の前の一人に、そして今、目の前にある出来事に無頓着にならず、心が敏感に感じ取れる。

そんな自分でありたいと感じました。