過日、久々に勉強会に参加。
いつもの仲間と、支援の課題と対策などを語り合う。
そこで、ハッと気づかされる言葉が飛んでくる。
「子どもの支援の中で、“困った”子どもとして相談が来るのですが、私は“困っている子ども”として見ることを心がけている(要旨)」と。
確かに、聞き分けの良い子どももいる。
しかし、それは子どもが大人に気を遣わせている実態。
子どもはそもそも、自分勝手に大人を困らせてやろうとは思っていない。
気を遣わせている子どもは一見良い子に見える。
しかし、それは大人にとって“都合の良い子”であって、子どもらしさは表現できない。
そもそも子どもという時間は、自分の想いを自由に表現することができる時間なはず。
なのに、自分の想いを自由に表現できる親の前で、それを親の権威でそれをさせないのは、今後徐々に広がる人間関係において、多くの課題を抱えたまま社会に出ていくことになるのだろう。
友達関係に心が疲弊したり、勉強がついていけなくなったり、親からの欲しかった愛情が与えてもらえなかったり。
そうした状況から、周りを気にして気を遣うことばかりに心を使うことになってしまった子どもは、のちに心が破裂するように大人にとっての問題行動として表現していくことになるのだろう。
これは、子どもの世界だけではない。
大人も同じこと。
子どもから成長した成年期であれば、心が柔軟な分、紛らす方法や逃避などで乗り越えていけよう。
しかし、変化に適応ができない高齢者にとっては、柔軟には適応することができない。
さらに、認知症になればもっと難しくなる。
認知症でいう、過去に問題行動と呼ばれていたBPSDは、家族を困らせようとしているのではなく、困ってしまって、もがき苦しむ彼らなりの「助けて!」のシグナルとして見ることができる。
そう考えると、私たちが「困った人だな〜」と思ってしまう人の内面には、物事を整理つけられず困惑している姿なのだと見ることで支援の糸口は見えてくるように思える。
ただ、残念なことに大人の中には、人を貶めようとする輩は少なからずいる。
でも、その人は、もともとそういう人だったわけではなく、子どもの頃は、ほかの子どもたちと同じだったはず。
様々なストレスや抑圧、不公平な愛情などが積み重なって心が歪められてしまった姿なのかもしれない。
そうした歪められてしまった心では、何を見ても歪んで見えてしまう。
心の底に溜まってしまった怒りや抑圧や屈辱で歪められてしまった心では、物事を素直に見ることができず、映し出し出される真実は、全てが歪んで映って見えてしまう。
そうした目には、人の優しさは裏があり偽りと見えてしまうし、怯えた心は、人に心を許すことができず、孤独が心に巣を作り、心を冷たく凍らせて閉ざしてしまう。
そんな冷たく、光閉ざされた心に、温かい光を送り続けることが大切なのだろう。
それが、誠実な関わりであり、まさに寄り添うという行為なのだろう。
しかし、それは並大抵なことではなく、時間もかかる事でもある。
自分には、どこまでできるのだろうかと悩む。
支援者としてはもちろん、人としても未だ未熟な自身の姿に、悩み心閉ざす人をほんとうの意味で支えることができるているのだろうか。
日々自分自身の心を鍛え、学び研鑽の必要性を思い知るのでした。