久々につぶやきます。
このしばらくの間には、いろいろなことがあって、自分の心と自問自答する時間を過ごしておりました。
いや、今もその真っ只中にいると言ったほうが正しいかも。
生きること、ささえること。
許す心ができる人の心の広さ。
「興味の学び」と「人を支えるための学び」とは、大きな違いがあるということ。
そして、真剣だからこそ…。
真剣な人は違う。
何が違うって、思慮深く、行動が伴っている。
そして、どんな苦労も、希望を胸に抱いて歩んでいく。
それが、どんなに小さな歩みでも、立ち止まっては歩き、伏して動けないくなっていても心だけでも前に進もうとする。
たとえ、もうダメだと諦めの言葉を吐いていても、立ち止まっている自分に怒りを持って、苛立ちを持って、心の葛藤の中にいる。
そんな時、支えてくれる人、理解してくれる人がいたら、また大きく翼を広げて立ち上がっていく。
真剣だからこそ、諦めても無気力になっても、その火種は消えず、ずっと残っている。
支えてくれる人がいたら頑張れる。
自分を理解する人がいてくれたら、また立ち上がれる。
でも、そこには真剣な思いがあってこそ。
真剣な思いでも、自分のために真剣であることは長続きはしない。
それは、自己中心の考えであって、自分の都合でどうにでも目標は変えられる。
自分の心が指標だから、自分が満足すればそれで終わり。
しかし、誰かのために、という他者のための思いは、自分の外にある課題や問題を解決することを目標とするのだから、簡単には目標は変えられない。
そして、なによりも、不思議なことに人のために動くことは、無限の力が湧いてくる。
それには、相手と真剣に向き合うことから始まるのだと思う。
自分が幸せだから相手にもおすそ分けというものでもない。
それよりも、自分がたくさん苦労したからこそだろう。
真剣な人は、怒りも半端ない。
静かに、そしてグッと心に秘めて怒る。
そして、人のために怒れるのは本当の正義感なのだと思うのです。
真剣な人の怒りは、誰も文句が言えない。
行動の中で、怒るのですから的を得ている部分が多い。
たとえ、その人に文句を言ったとしても、屁理屈や稚拙な評論にしかすぎない。
言っている人が、みっともない姿に見られるだけなのだろう。
今、社会には様々な課題や問題がある。
ボーッとしていたら見過ごしてしまうようなことも。
そんな中でも、流されずに真剣な人になりたいと思う。