皆さんは、社会福祉とはどういったものだと思いますか。

私は、大学に入ってこの言葉を理解するのに、とても時間がかかりました。

障がい者の方に対して「かわいそうな人のために!」という意識から始まった私にとって、教授からの「障がい者をかわいそうな人と見るあなたは、何様なんだ!」との言葉で、「⁇⁇」の連続。

自分と同じように悩める人の助けになりたいという考えも「あなたにその人の悩みを解決してあげられるはずがない!」とこれまた一喝。

貧困に悩むなら生活保護があるじゃないかという一言にも「お前はバカか!」のお叱り。

今だからこそ、教授の怒りは理解できるが、当時はなんで“人のために”と思う心がいけないと言うのかわからなかった。

人の価値は誰が決めるのか。

当時、障がい者をかわいそうな人と見ていた私は、勝手にその人の存在価値を否定していたのかもしれない。確かに、健常者とは違う(健常者という言葉も違和感を感じる自分がいるのですが、変われば変わるものですね)しかし、違いはいけないことなのか。(違いについては次回つぶやきます)

福祉の国の一つとしていわれるスウェーデンの友人に社会福祉とはなにかと聞いたことがある。
彼は「健常者も障がい者も誰にでも受ける権利があるもの」とすんなりと答えた。

そうなのです。

社会福祉はかわいそうな人のためのものではなく、誰もが受ける権利を有するものなのです。
それでも、ちょっとわかりにくい言葉なので、もう少し話を進めてみます。

障がい者も健常者も一緒。

なのに、なぜ生活に差ができてしまうのだろうか…。
社会が健常者の基準でできているから。
なので、バリヤフリーという言葉が出てきた。
しかし、バリヤフリーがバリヤを作ったといわれるようになった。

例えば、車イス用にスロープができる。
段差を無くすスロープくらいであればいいのだが、段差以上の高さを解消するには、長いスロープが必要になる。健常者はそのスロープを使うと距離が長くなって大変だから階段のほうがいいという。
車イスの人は、その長い距離を登っていく。
車イスだからしょうがないのだろうか。

なのでエレベーターが使いやすい。
しかし、このエレベーターも…。

先に出てきたスウェーデンの友人は、日本に来てびっくりしたことがたくさんあったと話す。
その一つにそのエレベーターの事。
エレベーターの中に入ると、縦に長い目的別のフロアのボタン。
車イスの人はまずは届かない。
横の壁に車イス用のボタンが用意されている。
しかし、そこには「このボタン押すと扉が長く開きます。周りへの迷惑になる場合があるのでむやみに押さないでください」と書いてあったという。
「障がい者が使うボタンは迷惑?」彼はそう思ったそうである。
まさに、バリヤフリーがバリヤを作っている姿なのだろう。
そして今は、ユニバーサルデザインとなり、誰にでも使いやすいものへと考え方は変わっていった。
服装もユニセックスとなっているものも、若干ではあるが増えてきた。
それはそれでいい方向に向いているのだろう。

しかし、残念なことがある。
それは、健常者からの気づきからではなく、変化の陰には障がい者などのマイノリティの懸命な訴えが元になっていることがほとんど。
あえて、マイノリティの方から波風を立てるように訴えたから変わっていった。
波風を立てた人が批判の的になりながら、犠牲になりながら懸命に訴えたからこその結果だったりもする。
しかし、高齢者や認知症の人のほとんどが、自らの権利を主張しない。
周りのなすがまま…。

私たちも、可愛そうだからとか、何もできない人としてしか見えていないと、その人を守ると言いながら、守る私たち自身が彼らの尊厳を侵しながら支えているわけですから上手くいくわけがない。

私たちはその権利を侵す者と戦わなければならない。
あなたが、そこにいるだけで意味があり、かけがいのない存在として生きてくださるように。
あなたが、人生の主人公として、人生の主体者として生きていけるように。

私たちは、全ての人間が生まれながらにして自由であり、尊厳と権利を平等に有している。
その人の当然の権利を権利を守るために…。