人が生きていくって、自転車を運転しているみたい。
無風の状態でも、自転車をこぎ出せば、向かい風になり、さらに力一杯加速すればさらに強い向かい風になる。
生きて前に進むということは、何らかの抵抗があったり、壁があったりと、生きることを妨げるような向かい風があるように思える。
生きるってそういうことなのだろう。
ふっと考えると、自分には1つひとつ乗り越えてきた事実がある。
反対に逃げて来た問題は、必ず巡りめぐって再び目の前にやってくる。
まるで、ゲームのステージをクリアしないと前に進めないように…。
そして、今になって考えれば「あの苦しかったことは、今のこのためにあったんだ」や「あの時あれを乗り越えて来たから今がある」そう思うことができる自分もいる。
先記の先輩は、今まで味わった苦労を、時が経ち振り返って考えた時「あの苦労は、このためにあった」そう言えることが大切なんだと語る。
過去の苦労を意味あるものと、きちんと意味づけることができる人は心に幸せを感じることができる人なんだと。
要は、全ては自分なんだと。
今の出来事をどう捉えるのか。
そして、過去の困難な出来事を意味あるものと捉えることができることが、人が人として成長していく上で大切な視点なんだと。
今の苦労は自分の人生全てを支配する暗雲と捉えてそこでうずくまって一点のみを見つめてしまうのではなく、目線を変えることなのだろう。
しかし、言葉で言うほどそれは容易なことではない。
そもそも、自身が持つ性格があるから。
そして、人生の上で学んだ、自分なりに積み重ねてきた自身の価値観があるから。
その価値観が、自分自身が生きてるために必要だった信念であったり、防御の壁であったりしている。
しかし、その反面、その価値観が、新しいものの見方を妨げ、自分を苦しめていることも事実なのです。
こんな昔の言葉がある。
「例えば、大風が吹いたとき、植えたての木は根っこが張っていなくても、強い支えがあれば木は倒れない。しかし、どんなに昔から生えていた木でも根っこが張っていないと弱く倒れてしまう。そんな木の話を通じて、弱く不甲斐ないものなれでも、助けるものが強ければ倒れず、頑健なものであっても1人であれば悪道に倒れる」と言う逸話。
どんなに苦しくても、助けてくれる人がいれば、きっと大丈夫。
「助けてくれる人がいない」そう言う人もいるだろう。
それってほんとうなのかな…。
自ら求めていないなかったり、居ても気づかなかったり。
もしくは、ないがしろにしたりしてはいなかっただろうか。
自らが抱える苦難の思いを力に変える。
そうした体験は、相手を理解する力になる。
そして、人を支える力になる。
そうなるために、私たちは支えてもらう体験も必要なのだろう。
共に苦難を越え、支える人がいたことが、次は支え方を学ぶ機会となろう。
支援者である私たちも、支えて欲しいと思っている。
だからこそ、その苦難と向き合いその苦難と¥向き合い勝ち超えていく体験が必要なのかもしれない。
そうでないと、弱いままであると共に勝ち超えていく支えではなく、切り捨てることや諦めることを学ぶことになる。
そして、現実から目を背けて後ろ向きに生きることを教えてしまうことになりかねない。
強き助けとなる支援者として、「助ける人は、ここにいますよ!」と、大きく手を広げて迎えることができる私たちとなれるために、自分を強く支えてくれる人の存在は重要であり、そうした人と出会えることが何よりも幸せなことなのだと思うのです。
そんな人は、自分の周りにはいないと思う人。
どこかに必ずいると思います。
目を凝らして、心開いて、共に探してみませんか。