1年ほど沈黙してやっと語るにいたりました。

石川県の親愛なる友人に、この三日坊主が書かれていないことに残念とのコメントを頂きながらも、どうしても書くことができなかったこの時間。 この1年なにを考えて、なにをしていたのか…。 ちょっとだけお話しをすると、コロナ禍で見えないストレスを感じつつ、書くことよりも目の前のことに集中したくて書くことを後回しにしておりました。

語ることは、智を広げ理念に行動するための大切な機会でもあることを実感。 語らずにいた時間は、自分を原点に戻してくれる時間でもあり、足元に目を向ける時間となりました。

先ほどの石川県の友人や、先日、地元の公民館の人権担当の先生からもつぶやきのコメントをいただいて、さてさて、今日からちょっとずつ書き始めなければと思ったしだいです。

独善的で、ちょっと毒を含んだひとりごとのようなつぶやき。 そんな偏屈な言葉を読んでくださる人がいて、それを待っている人がいる。 そして、読みたいと言ってくれる人がいるって、それはとってもありがたいことです。

しばらく、書くことをしてこなかったので、文書はガタガタの散文になりそうですが、どうぞお付き合いくださいませ。 楽しみに待っていてくれる方々に感謝の思いを込めて、今日から書き始めます。

最初の話は、寛容さと曖昧 いろいろなことがあった時、私たちは怒ることもあれば、穏やかに許すこともある。 私たちは、さまざまな出来事の中で、納得できないこともあれば、図星を突かれて素直に受け入れられずに怒りとして反応することもあります。 また、間違ったことがあると、それを怒りとして指摘することもあれば、「しょうがないな~」とそのままにしておくこともあります。

指摘と言えば、コロナ禍で時々耳にする◯◯警察。 マスクをせずにいることにへの指摘や自粛せずに路上飲みへの指摘などへの怒りのこもった指摘がこの1年半の間所々で耳にします。

反面、指摘しない人も実際にいるわけで、この差を不寛容と寛容として表現することもあります。 確かに、コロナ禍となる前から、不寛容の時代とも言われるようになっていたので、このコロナ禍では、目に見えて顕著に現れているように思います。 不寛容の時代の背景に心の余裕がないとの指摘もあるように、私たちが生きるこの時代は、昔よりも時間の流れは早く流れていように感じます。

このもくれんに通ってくださる方から「歳をすると1日が早い。1年はもっと早く感じるよ。」との話があったように、確かに子供の頃の夏休みは、1日がとっても長く感じました。 ただ、夏休みが終わるのは早く感じるもので、宿題の山に毎年涙する。 未だに、サザエさんのエンディング曲を聞くと、夏休みの宿題の山を思い出し、鼻がツ〜ンとして、心がざわつくのは私だけだろうか…。

話は元に戻るとして、インターネットの普及、ひとり一台のスマホの時代に入って情報の速さ、今まで聞こえなかった世間の声など、耳を塞ぎ目を閉じても入ってくる情報に心穏やかにすることが難しいのかもしれません。 なので、要らない情報で心乱され、怒らなくてもいいことにさえも煽られて怒りに繋がる。

それとはまた違って、不寛容の怒りは、感情的であって、相手のことを思っての言葉ではないのでその怒りの指摘は改善を求めるのものではなく、怒ることそのものに目的があるので、その怒りは相手が平謝りになるまで、場合によっては、こてんぱんに潰れなければ許せないのだろう。

不寛容の時代の中で寛容の必要性が今は求められているのは当然のことだと思うのです。

しかし〜。 この呟きは、そんな世間の流れとは曲がって呟いているので、今目の前にある寛容は本当に寛容のことを言っているのか…。 もしかすると、寛容ではなく、無関心であったり、排他的からくるものではないだろうか。

次回は、へそを横に付けて、ちょっと考えて見ようと思います。