あっという間の三回忌。 自分の父親のこと。 三回忌を前に個人的な内容になるけど、自分自身の整理のために、そして誰かの何かのきっかけになればと自分のことを書き留めてみようと思う。 だいぶ長文になります。 前半は、筆者個人のこととして、「親父と息子の想い〜亡くなってから気づくこと」 後半は、支援者としての視点で「支援者として、自身のことを俯瞰してみる」 上記の二つに項目を分けて書きました。 支援者として視点に興味がある方は、後半の「支援者として、自身のことを俯瞰してみる」から見ていただけたらと思います。 いずれも、お時間のあるときにでも、お付き合いいただければと思います。 〖親父と息子の想い〜亡くなってから気づくこと〗 親父が子どもの頃、家族みんなで満州の開拓団に行った。 終戦を迎え、命からがら引き揚げ船に乗って帰ってきた。 まさに命からがら。 親父の弟は、5歳で餓死で亡くなった。 満州の地に埋めてきた話を私が子どもの頃時々話してくれた。 親父の姉は、何とか日本に帰ってきたが、腎臓を患って18歳で目が見えなくなり亡くなった。 親父の父親は、シベリア抑留体験者。 何とか生きて帰ってこれた珍しい人。 トラックなどの整備ができた人だったようで、シベリア抑留中ロシア兵から重宝がられて生きて帰ってこられたと聞く。 戦争の惨禍を越えてきた親父。 その後もだいぶ苦労をしてきたようだ。 そんな親父。 父親としての思い出は、それほど記憶に残っていない。 きっと、皆さんも同じような経験は大なり小なりあったかと思います。 ただ、心が貧弱な私にとっては、かなり堪えた子ども時代でした。 子どもの頃は、キャッチボールどころか何か一緒に遊んだことがない。 出かけた思い出はあっても、狭い車の中に押し込まれ、車酔いと妹とどこか歩いた思い出はあるが、遊んだ思い出はない。 公園の遊園地でさえいった思い出がない私は、公園でひとり遊びと、団地の中庭にあった滑り台のうえに登り、大きな声で「ウルトラマン!」と何度も叫んで、団地のおじさんにうるさい!と怒鳴られ起こられた思い出くらいしかない。 だからジェットコースターや観覧車なんで全く知らなかったので、大学時代に初めてディズニーランドに行ったときに、なんて世界があるんだろうとビックリして、乗り物にビビったくらいだった。 友達と遊んでいると勉強しろと遊ぶことを禁じられていた。 小学校4年生の通知表に「ボール運動のルールなどわからない」と書かれていた。 遊んでないもの知るはずもない。 転校もした。 転校先でやっと出来た友達。 母親に、あまりあの子と遊ばない方がいいと言われたことがある。 初めて親に反論して「僕の友達は自分で決める」といった思いがある。 ん…。 遊ぶとか勉強を教わったとか。 そんなこと以前に、親父との接点がなかった。 玄関の扉がガラガラと開く音で機嫌がいいか悪いかわかる。 機嫌が悪ければ、そっと自分の部屋に逃げ込む。 とはいっても逃げてもダメなときが多かった。 呼び出され、意味のわからない難癖をつけられ、夜中の1時過ぎまで正座させられ、いつも怒られていた。 毎回怒られるので、自分がいつも悪いんだと思うようになっていた。 酒を飲んでは大暴れ、夫婦喧嘩で母親は、ボコボコ殴られて出て行ってしまうことがよくあった。 小学校、中学校の自分の卒業式の写真は、すべて母親の顔は、殴られて腫れ上がった写真が残る。 親父は空手をやっていたと聞かされ、とても怖かったから、逆らうなんて命がけだと思っていた。 家の中はいつも緊張と居心地の悪さがあった。 居心地が悪ければ出て行ってしまえばいいのだろうけど、行くところもない。 見つかったらきっと何倍も怒られると思っていた。また、逃げても無駄だと思うことの方がメインだったかも。 いや、それさえもないくらい無気力でなにも考えない方が楽だった。 頑張っても褒められない。 もっと、もっとと励まされるどころか、努力さえも否定されていた。 言い出せばきりがない…。 ただ唯一、親父との海釣りはあとをついて行くように一緒に行った。 ただ、親父と二人で行くのは、とってもイヤだった。 また、怒られたり文句言われるんだろうとか思った。 そもそも、話すネタがない。 だから、親父の友人が混ざっていることで安心して行けた。 親父が飲んだくれて寝てしまった後に、よく母親から親父の悪口を聞かされた。 「だったら別れてしまえばいいじゃないか」と子どもながらに言ったことがある。 すると母親から「何もわからないくせに!といい、おまえたちがいるから無理だ」と言われた思いがある。 結局、自分がいるから不幸はついて回るんだと思うようになっていた。 大人になっていくたびに、親父とは距離もでき、また文句を言えるようになってきた。 親父を否定もした。 「積年の恨みというのがあるんだ!」と言い放ったこともある。 4年半前に、親父がガンの末期だとわかった。 余命2年というなんとも短くもなく、感覚的に長い余命だな〜と思った。 死にゆく人に後ろから蹴ることは出来ない。 それより、自分もたくさんの人生経験をかさねてくる中で、親父の想いの全てを理解することは出来ないが、親父の背景からなんとなくわかる部分もあった。 だから、残りの2年は親父を少し労ろうなどと考えた。 しかし、余命よりも半年早くその時が来た。 親父との最期の時間が残り1週間となったとき。 はじめて、親父と二人だけで話をした。 毎日、仕事が終わったら病院に行って1時間以上は話をしていた。 亡くなる4日前までは、話がしっかり出来た。 あるとき、私が親父の話を「そうか。そうか。」と聞いていたら、親父がひと言「おまえ何か悩みがあるんじゃないか」と聞く。 何でそう思う?と聞くと、「おまえが悩んでいるときは何も言わず聞いているときが多いからさ」と。 胸が痛かった。 なぜに、こんな時に親父らしくなる…。 亡くなる3日前から、眠ることが多くなった。 私が帰るときには必ず胸の上に乗せている右手をそっと挙げて「気をつけてな」と声をかけてくれていたが、この日はそっと手が振れる程度で、言葉にならない声で送ってくれた。 亡くなる2日前。 2日前からほとんど食べなくなっていた。 大切な方からおいしそうな鮭の切り身をいただいたので、塩焼きにしておにぎりを握って持っていった。 釣りに行くときに食べたおにぎり。 そのおにぎりが、親父の最期の食事となった。 「悪態ばかりでごめん」と親父に詫びた。 なぜか涙が溢れていた。 親父は9月1日なくなった。 余命宣告、2週間と言われてまもなく、親父に「うちに帰りたくないか」と聞いたら「今は暑いから涼しくなったらな〜9月に入ったら帰るか」と。 その9月に永く眠ったまま帰ってきた。 人が亡くなる前に前兆があるとかないとか。 亡くなる前日の夜。 乗り換えてまた慣れていない車。 車の給油がそろそろ必要かと思いつつ、目盛はまだあるからと先に病院に行こうか悩みながら運転。 やっぱり給油しようと考えてガソリンスタンドの前まで来たらガス欠。 残りちょっとを押して給油スタンドに。 ガス欠なんて、初心者のときだってほとんどないこと。 車好きで大概の故障くらいはわかる自分がガス欠なんて〜。 ショックとともに、何かの知らせか?と思い巡らす。 いつも気をつけてな〜と手を振るオヤジの姿が浮かび、車好きの親父のメッセージだったのではと、のちに気づくことになる。 人は、失って初めて気づくことばかり。 怒ってばかりの自分。 過去のことを許すことができない自分。 なんでと思うほど、親父の前では苛ついた。 それは積年の恨みだと思っていた。 飲んだくれて、家の中を暴れてぐちゃぐちゃにしたから? 酔っては、母をボコボコに殴り、妹は柱に縛られ、吊らされたから? 親父を恐怖でしかなかったから? 勝手なことばかりの姿に苛立っていたから? そもそも、自分は親父から愛されていなかったと思っていた。 そう思うと、義理の親父さんが大好きだったのは、もちろん義父がいい人だったからだが、ほんとうの心は、親父からもらえなかった愛情を求めての想いもプラスされていたのかもしれない。 いろいろと子どもの頃からのことを思い出す。 今さらながらに、ふっと思い出す。 この仕事をしたくて、就職浪人をして、やっと仕事を見つけたとき、親父から「ずっと、やりたかった仕事に就けてよかったな。」その一言が嬉しかったことを思い出す。 初めて車との物損事故をしたとき、親父が駆けつけてきたとき、何もの叱らずに事故処理をしてくれたこと。 そして、事故の反省としてしばらくクルマに乗らないと話したときに「こういうときだからこそ運転をするんだ」と、諭してくれたこと。 私が大学に進学が決まり、入学金が払えず、地元の地方銀行に相談に行ったとき銀行員から「お金もないのに子どもを学校に行かせるですか」と説教され、借入も出来ず帰ってきたときの親父の涙。 親父の優しさが連なって思い出した。 〖支援者として、自身のことを俯瞰してみる〗 人は、なにかひとつのことを思い出すとそのつながりで思い出すことがいくつもある。 その思い出す内容が、苛立ちや怒りの思い出であれば、苛立ちや怒りが連なって思い出す。 その逆に、優しい思い出や心地よかった思い出を思い出せれば、心地よい想いが連なって出てくる。 陰の思い出を思い出し続けるのか。 それとも陽の思い出を思い出すのか。 自分自身にとっても相手にとっても、心地よかった陽の思い出を思い出すことの方がずっといい。 しかし、思い出す自身の心が、憎悪など否定感に包まれていると、肯定的な想いに至るのは難しい。 自身の想いを肯定的感情に向けるためには、自分の心の内を話せる人がいることが大切になる。 ひとりごとでは、自分の心をコントロールするのは難しい。 自分の意識はそのときの感情で揺れ動き、正視眼とはならないもの。 さらに、介護のことは、家族に本音や感情的なことを話すのは難しい。 であるからこそ、私たち支援者はいるはず。 勘違いしてはいけないこと。 それは、何でも肯定的な言葉を言えばいいのではないということ。 辛いときには辛いと語り、楽しいときにはともに喜び合える。 そんな情緒的関与が支援者には求められる。 相手を許すことも、 叶わなかった想いや傷ついた心。 失った願いや悲しい過去の出来事など、素直に思う存分に語ることから心の整理は始まる。 語るというよりも、想いを吐き出すようにといった方がシックリくるかもしれません。 怒ってもいい、泣いてもいい、自分のあるがままの想いを語ることで、ほんとうに相手を許すことにつながっていく。 支援者である私たちが大切にして行かなければならないこと。 それは、その語る言葉や姿をそのまま受け入れる。 できていない、ダメだったと素直に語り表現しているその人を無条件で抱きしめるように受け入れて行く。 まるで、傷ついた心を癒すように、その苦しんだ体験を力に変えていけるように…。 私たち支援者は、陰の思い出を吐き出し、苦しみを聞いてもらって苦しみを半減させ、心地よい陽の思い出を思い出してもらい、心に力を付けていけるように支えていく。 親父の心地よい思い出を思い出したら、あのとき、このときと思い出が溢れてくる。 亡くなってまもなく、親父と行った富山の漁港に足を伸ばした。 車を降りて、漁場に行く。 堤防の一ヵ所。 麦わら帽子を被りジッと魚がかかるのを待つ親父の後ろ姿が目に浮かぶ。 そこにはいないのに、なぜかそこにいるように見えてしまう。 いないことがこんなにも寂しいものなのか。 人は、失ったときに気づくのだろう。 きっと、“失ったときに気づく”のは、世間の常なのだろう。 しかし、それを当たり前にしてはいけないと思う。 あとから気づいても、後悔ばかりが残ってしまう。 切なさだけが残ってしまう。 想いを言葉にして、良い思い出を語り心を陽へと向けていく。 親父が亡くなる一週間前。 はじめて、語り合ったこの一週間の時間が今年も始まった。 いろいろ葛藤がある中、悩み苦しむ私を一生懸命に話を聴き支えてくれた人がいた。 この苦しみを意味あるものとして今の私の中に残っているのは、その人がしっかりと私の話を聴き支えていてくれていたから。 心から感謝している。 そして、その想いを生涯忘れずに恩を返しなければと思っている。 今回は、自分の事をお話しました。 この話は、次回家族支援についてに繋がる話。 家族支援は、問題を取り除く事ばかりに終始していなかったか。 そんな想いを込めて、次回は家族支援とは…を考えたいと思います。