コミュニケーションという視点から見たら、コミュニケーションの障がいは、一方的に相手に問題があるのではない。
あくまで、相互の関係性の中にある。(お互い様の中にある)
そんな言葉を、ジェンダーの問題に関わる人から聴いた。

よくコミュニケーションの障がいとか、コミュニケーション困難と表現しています。
しかし、コミュニケーション単体で見たら、障がいという事柄はない。
人は、なにかを伝えようとさまざまなツールを使ってコミュニケーションを図ろうとする。
例えば「話す」「書く」「鳴らす」「表情」身振り手振り」などなど…。

そもそも私から見て、私の使うコミュニケーションツールを相手が使えないということであって、相互のコミュニケーションにチャンネルやツールが共有できていないだけである。

認知症の人であれば、例えば、なにかを伝えようと思う。
それを相手に伝えようと言葉にしようとするが、思いついて、言葉にするまでの間に記憶に留めて置くことが難しいので「ほらあれ」「何だっけ、あれよ!」となってしまう。
また、口にしてもそれが自分の言いたかったことなのかがわからなくなってしまったり。
また、先回りして私たちが本人の思う言葉を想像して返した言葉が、それとは違う答えで返してしまうと「それじゃないんだよ」「そうじゃなくて!」と私たちに返す。
しかし「そうじゃなくて」と返しているうちに何を伝えたかったかがわからなくなってしまう。
私たち専門職が、コミュニケーション技法にある要約や解釈の技法で、すれ違いで起きてしまうパターンにどことなく似た感じの現象…。

それでも彼らは、なにかを私たちに伝えようと、認知症の人なりに、私たちに話を合わせようと努力もします。
しかし、状況を把握することが難しい彼らにとって、相当のエネルギーを使って合わせていく。
でも、彼らの努力も障がいの意味を知らないと「ボケてんだな〜」「もっとはっきり言って」とさらに相手を煽ってしまう。

どんなに努力をしても伝わらない。
それどころか「おまえが悪い」と言われてしまったら…。
それは、想像するには容易すぎるほどはっきりと答えが見えてくる。
彼らだけでなく、私たちも彼らと同じように返す態度であろうから。

彼らは、自ら相手に合わせようとするが、そのツールがうまく使えない。
まさにコミュニケーション単体の問題ではなく、認知症の持つ障がいをがそうさせている。
その中で、使えるコミュニケーションツールをフル稼働して相手に何かを伝えようとする。
それを拾えないのは私たちの問題なのではないだろうか。
それが、最初に述べた「コミュニケーションという視点から見たら、コミュニケーションの障がいは、一方的に相手に問題があるのではない」という言葉に繋がっていくのである。

合わせることが困難ならば、合わせる力がある私たちが合わせる。
そうしてはじめて、コミュニケーションは成り立つ。

どんなに勉強しても、認知症の人が持つ障がいを、知識として理解していても、行動が伴わなければ、それは自己満足の知識であって、人のためには役立てられていない。
知識が目の前のクライエントに個別に工夫し合わせて相手に届ける努力をしないと結果は得られないのです。

生まれて、言葉を発することが難しい赤ん坊は、泣くか笑うか。
母親は、泣いている姿で「お腹がすいたのか」「どこか痛いのか」「おむつを交換して欲しいのか」さまざまな想像をしながら子どもの心を拾い上げようと必死にコミュニケーションをはかろうとしていく。

認知症の人や障がいをもつ人と、赤ん坊とのコミュニケーションに違いがあるのはどういうことなのか。

外人には、一生懸命に英語で話そうとするのに、なぜ認知症の人とはコミュニケーション困難だからと私たちから話を合わせようとしないのか。

いずれも、そこに心の中にある隠された大きな問題があるのではないだろうか。